◆新村出著「公孫樹の歌」

植物を愛した重山博士には公孫樹(いちょう)についての論考も多い。その多くは漢和名(公孫樹、銀杏、銀銀杏、鴨脚、鴨脚樹)について、あるいは仮名書き(イチョウ、イテフ、イチャウ、イーチャウ、イチョー)について書かれたものであるが、俳句や短歌に歌われた公孫樹について書かれた「銀杏並木」「公孫樹の歌」という随筆もある。ともに『朝霞随筆』(湯川弘文社、昭和18年刊)に収められているが、『新村出全集』には前者だけが収録された。現在では『朝霞随筆』を見る機会は少ないと思われるので、一部省略して紹介する。博士が多くの短歌雑誌に眼を通し、一首一首を深く鑑賞していたことが分かる文章でもある。

(業務執行理事 吉野政治 記)

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見すてられたものは世にあらはしたいのが人情で、日本往時の文学に一つも公孫樹を題材にしたものがないらしいのを知つて、この一年ほどの間、私の詮索癖は私を駆つて和歌俳諧漢詩小説戯曲あらゆる日本文学の諸方面に一とおりの調べを試みさせた。伝説と紀行とには往々散見するが純文学では、さすがに元禄期以来の俳句にはしばしばあらはれてゐるが、それはこゝには除く。日本の漢詩の方も頼山陽の名詩以前のものは未だ知らない。枕草子の「木」にも未だ出て来なければ、俳文にも閑却された。露伴翁が明治三十二年十一月、「忘れられたる草木」の中に於てこの木を見出されたのが、明治文学でも最初ではなかつたか。但しその文もこゝには略する。漱石氏が「趣味の遺伝」に於て小石川白山の寂光院の化銀杏を叙した名文があらはれたのは明治三十九年正月であつた。鏡花氏の小説化銀杏はその以前の作であつたが、これはこの木に直接関係がない。散文の方はともかく韻文の方では明治三十四年十月の作といふ泣菫君の名篇「公孫樹の下に立ちて」は、長詩の範囲に於は恐くは魁を成したものであつたらうが、この方のこともこゝには省いておく。又絵画彫刻紋章文様その他の意匠に用ゐられたがはの話も別稿を期するとして、私は今まつしぐらに短歌にあらはれた方面に進むことにする。

支那に於ても銀杏は北宋末期あたりの詩より以前はみかけない。(中略)

幕末歌界の新人などの作を見たが、イテフの歌は未だ私の眼にふれない。たゞ一つ佐佐木博士の示教によって岡部東平(ハルヒラ)(安政三年歿)が閑居落葉の題詠にて、

しづけさをひとり味はふ書巻のしをりに似たりちゝの落葉は(近世和歌史)

とよんだのがめづらしい。(中略)

明治時代の短歌に於て三十年代以前の作には私の見落しがあるだらうが私はまた銀杏の歌を見出し得ない。故平瀬作五郎氏(大正十三年歿)が銀杏の生殖作用に関して大発見を遂げてからこれを発表したのは明治二十九年であるが、日本文学の方でも三十年以後に至つて初めて銀杏を題材にする者が続出する様になつたのは不思議な縁だ。明治三十六年に歿せられた、落合直文氏の歌といふに、

庭松をはなれし月のまた更に銀杏の蔭に立ちかくれつゝ

といふのがあつて、銀杏の特点は全くあらはれてゐないけれども、この種の歌では古い方であらう。三十六年十月初刊の佐佐木氏の「おもひ草」のうちには

古寺の大木のいてふ乱れちりて鳩みだれ飛ぶ木枯の風

と見えてゐる。古い方の一つと信ずる。以下の作も亦一々年代の考証も出来ず又年代がわかつてゐても煩はしいから年紀にはかまはず或は作者により録しておくのである。

亡びゆくものとも見えずおほらかに金色したるひともと公孫樹(ひなげし)

と安広花子氏のよまれたのは、この樹の植物公布学上の地位をも道破し、芭蕉翁の「やがて死ぬけしきもみえず蝉の声」の名句を絵画化したやうな趣があつて、与謝野晶子女史の「晩香抄」(明星大正十四年一月)に見えたる、

静かなり風の示すにしたがひて葉を散らすべき銀杏なれども

と共に一種沈痛な無常観を起さしめる。晶子女史は公孫樹を詠ずること最も多く而も佳什に富むのは、この木に対する愛着心が強い私にとつては大によろこばしく思ふのである。私は今その七首を知ってゐる。同じ抄に見えた三首中の一に

不思議をば形にしたる木の如く月夜に葉をば捨つる枝かな

と詠じたのは、公孫樹の神秘をうたうて余蘊なきものといふべきである。(中略)次にまた女史の

日の射して狐の毛にも似る銀杏稀に青かる極月(ごくげつ)の空

の一種の如きも女史ならではと感嘆せしめる見方である。若夫れ人口に膾炙する

金色の小さき鳥のかたちして銀杏ちるなり岡の夕に(晶子集)

の如きは今更私の挙げるまでもない名歌であるが、末の一句は一本には「夕日の丘に」となつてゐる。

公孫樹黄にして立つにふためきて野の霧くだる秋の夕ぐれ

の一首は、夕暮の公孫樹の歌のうちでは雅人の忘れ難き佳什である。同じ作者の

たそがれの硝子障子に映りたる濡れし鬱金のひともと銀杏

とあるは、いささか世話にくだけた所が面白い。山田葩夕氏の詠に

まつ黄に夕日をうけて大木(たいぼく)の銀杏はひとりしづかなるかな(代表歌選)

は孰れの御苑であるか。これは木下利玄氏の「一路」に洛西桂離宮のお池のほとりのそれをよんで

泉水に公孫樹の黄葉(もみぢ)うつりをりひろらのお庭の夕(ゆふ)静(しづ)をめぐる

とあるのと同じく銀杏の黄葉を秋の夕ぐれの静閑に対せしめたのである。杉栄三郎博士の

時雨るれど公孫樹大木の一ところ黄に明るしも向つ山の寺(心の花大正十三年十二月)

とあるのは、下村宏博士の

青山の墓地の杉の間あかるみて夕日かゞよふ金色公孫樹

の新詠を思はしめ、更に角鴎東氏の

この坂のいとも急なれ夕日さす寺の公孫樹ののしかかりけり(いしずゑ)

と同工異曲なるに対照される。安広花子氏の

たそがれぬさむき公孫樹のいくもとに金色のくもひくうながれて

はまた前記の杉氏の一首に比べられる。一もとと幾もととのちがひである。金子薫園氏の

大銀杏一葉うごかぬ秋雲のはれたる下(もと)に黄なるしづけさ(新撰壹萬葉集)

は小瀧空明氏の

しづ心いまわれにありまなかひの公孫樹若木の黄葉(もみぢ)のあかるさ

と同じ境地であるが、かれは対象に静を観じ、これは対境の明るさに心危くも動かんとするの趣がある。更に五島美代氏の東京大学正門内の鴨脚並木のかげにひとり面はゆげに

かつかつも我を支へて一人ゆくいてふのかげの黄なるあかるさ(心の花大正十四年二月)

と詠んだのとはまた違つた心境であらうか。西郷春子夫人が、鎌倉東慶寺に宗演老師の墓まうでのをりとかや寺内の大銀杏に対しての作

来つれども大木のいてふたゞひとりみ寺の秋をたちてゐにけり

の閑寂に至つては、それらとは全く別な趣である。晶子女史の作に

銀杏葉やかへりみすれば風ふきぬ下山の沙弥の黒染めの袖(晶子集)

とあるのは、俳句の趣味を連想せしめ、蕪村の句といふ「銀杏ふんで静に児(ちご)の下山かな」を思ひ出さしめる。(中略)

私はさきに公孫樹の女歌人として与謝野夫人を挙げたが、之に匹すべき男性の歌人としては牧野英一博士を推さざるを得ない。大正十二年元旦の「週刊朝日」に博士の公孫樹十首が掲げられてゐたのを私は見逃すことが出来なかつた。

このあした秋かぜおこり雲とびていてふのおほ木葉のしきり散る
金色のいちいちの葉にいちいちのほとけおはしていてふ散るなり
いてふの葉ひとつをうけてたなそこにしみらしみらに打ながめ見つ
秋かぜやいてふのおち葉こゑも立てずただひたすらに散りて行くなり
あき風やいてふのおほ木樹を挙げてひと朝にして散りはてにつも
さくさくといてふのおち葉ふむわれの足(あ)音(おと)さびしみ夕ゆくわれは
かぜ鳴ればいてふの大樹くろく立つかげうちゆらぎ夜のせまり来(く)も
いてふの木ほねの如くも立ちてその骨の鳴るかのごときかぜ鳴る
天の川しぐれふり行くあとよりぞいてふの尖(さき)にながれかかりたる
葉おつればいてふの老木(おいき)ことしまた冬さりつもよ夜かぜおもたく

この十首あつて公孫樹も一千年来の知己を得たことに感泣してよからうと思ふ。雄渾、凄愴、神秘、沈静、一々の作歌に異趣を備へ、或は霊感ゲーテの象徴詩を凌ぎ、又前掲諸歌人の輙く道破しなかつた半面の情致と思想とを表現し得て、この樹に愛着する私をして、いしくも歌つてくれたものかなと感激せしめずにはおかない。爾余の歌人の捉へた華麗、典雅、繊細、巧緻それらと相まつて公孫樹美の讃は短歌界に於て漸くととのはんとしつつある。(下略)

(大正十四年十二月六日夜皇孫降誕の号外の鈴の音を耳にしつゝ草し了る。)