◆秋の色

大阪新聞 昭和27年9月16日
新村 出

早いとおもった今年の秋が遅々としてぐずつくありさまなのは毎々ながら、もう庭の秋海棠もらんまんをすぎそろそろコスモスも早さきなのは開きそめて、モズの高鳴きをさそいかける。

夾竹桃から百日紅や百日草それと交錯してムクゲの白とうす紫、フヨウもおなじ二た色、どの花々も白に対して赤系統のものが、対立するのは自然の配合の妙だ。コスモスでもそうだが、朝顔となると夕顔と違って一層色彩がゆたかである。万葉集における秋の七草の色彩や容姿の取りどりなのもうれしいが、とりわけ萩を愛した万葉人は、現代人には想像がつきかねよう。その萩にも白があるが、私はむしろ白萩を愛する。秋の感じとしては、白萩の方にかたむく。ムクゲでもフヨウでも白をとりたい。天明の俳人が、七夕をよんだ句に白フヨウを星に見たてて、

星の精や八日にさける白ふよう

とよんだ佳句を毎年このごろ感嘆せずにはおかない。

万葉のアサガオは、後世のそれとは違ってキキョウをさすのだと、今はもう定説になってしまったが、しかしそのキキョウは白か紫かとせんぎしていくと、常識でも植物学上でもまあ紫の方だと推定し得よう。少くとも感じの上からは、眼のさめるばかりのあざやかさを持つ紫の方だと私は信じたい。もし白だとしても、万葉人の感覚には、存外あざやかに眼に映じたかもしれない。むろん主観的に判断しては良くない。夕顔は白ばかりだから論はないが、紫一色に限るとすれば、初めから論はない。月草、また露草とも、異名や方言が少くない所の、あの愛すべき野草にも、白があるといって、この夏に人からもらって庭にそだてておいたが、花がさかないうちにむしりとられた。山のリンドウなど紫一しきかもしれぬ。これらの場合、大てい、白の方は、後代の園芸化によるのかも知れぬが、植物学にも、色彩学にも、両々通じたゲーテにも、こんな花の変白論とでも称すべきものが残されたかどうか。

観念論からや、象徴主義から見てゆくと、秋の色は白だといってよいはずだ。春は青、夏は赤、秋は白、冬は黒、と古代のシナ人は五行説から、こんな該当を試み、四季や四方などに向って、おもしろい象徴的な当て方をした。しかして、中央の色を黄となし、青、黄、赤、白、黒の五色を定めた。黄は国土の色である。

青春に対して白秋とか素秋とかの熟語が存するが、雅号にも称されて人の知るが如くである。去来の名句に

秋風や白木の弓に弦はらん

とは、現代人にはぴんとこないけれども、万葉の初めの方の長歌をみればすぐこの句の妙味はわかるはずである。

(京都大学名誉教授・文博)